Blog
2017.03.05 06:30 PM 投稿:by しりあがり寿

この3月5日 練馬、刈谷と巡回した回・転・展が伊丹市立美術館でついに終了しました。
最後はどんな感じだったんだろうなぁ?しゅるるるる……ピタ…って感じだったのかなー?
回転が止まるその瞬間、訪れるはずの静寂にその場で身を浸していたかった!
てな感じで自分初の本格的な現代美術の展覧会、ついにおしまいです。
観に来ていただいた皆様、ホントにありがとうございました。



しかし回転ってなんだったんだろうなー。

うーん、思い起こすと最初に回転、面白いな!と思ったのは2011年秋の広島市現代美術館での「世界遺産をめぐる乳首真っ黒族と股のあたりキラッ族の戦い」という展示でした。
これは部屋中に描かれた世界遺産の中で敵対種族の二人組のマネキンが10数組対峙するというインスタレーションだったんだけど、いまいちパッとしない、でいろいろ考えた末浮かんだのが対峙するマネキンを回転させるという案だったんですね。
で、静止してるマネキンを回転させてみたら存在感がアップしてスカスカだった空間が一挙に充実した。
そこで回転することでいったい何が変わったんだろう?とか考えちゃったんですよね。

hiroshima.jpg



 こういうちょっとしたことで作品がよくなる感じで思い出すのは、例えば自分が絵を描いててどこかに何か色をいれたとたん、絵がよくなる感じ。
ものを作る人なら誰でも経験あるだろうけど「キマッタ!」って感じ。色でも形でもいいのですがパズルがカチッと決まって今までただの色と形だったものが、何かを醸し出す。今までそこになかった何かが立ち上がる。それは風景画であればその森のひんやりした湿り気が感じられるようになったり、人物であればその人が急に命を吹き込まれるような、もっと抽象的な何かでも、ただのキャンバスの上にのせた絵具の膜から別のものに昇華する。
そういうのって誰でもあると思うんだけど、それってざっくり「美が現れた」とか「美が増した」ってことだとしたら、「回転」は「美」を増すことのできる芸術製造行為じゃないですか(笑)しかも止まれば元に戻れる超便利機能。

 今まで一生懸命組み立てたり色塗ったりして得ていた「美」が回すだけで得られるってスゴイ!
そんなはずはないだろ!と思いつつ、でも回転で何かが変わってることも確かだし。
他にもそんな質を変える行為はあるんですよね。例えば「額にいれる」。どんなものでも額に入れたとたん「絵画」になります。
あるいは「スポットライトをあてる」。「屏風の前に置く」とかね。だいたいそういうものは対象をエラソーに見せる力がある。

ところが「回転」は違う。対象を権威づけない。どちらかといえば「笑う」。
偉人の銅像、歴史的な光景、価値あるものは回すことで滑稽になり権威を失う。
一方でヤカンやスリッパやとりとめもないものからはその本来の用途を奪い、ある種の浮揚感を伴う価値を与える。まぁ言ってみれば回転というのは価値あるものもないものもいっしょくたにただの「回ってるだけの存在」にしてしまう感じ。

yakan.jpg


 自分はもうずっとそういうのが好きで、若い頃からパロディーやらなんやらでいろんなものを笑っては価値を相対化するのが好きだったんだけど、一方でも全部が同じでいいんだろうか?という疑問はあって、正義やら愛やら真実やら善やらのはどうにも胡散臭くて笑ってやりたいけど、でも何かやはり価値あるものが欲しい。
そんな中で「美」ってのはなんかいいよね、でもエロと笑いが両立しないように笑いと美もなんか一緒になりにくいよねー、みたいににボンヤリ考えてるところに「笑い」と「美しさ」の両方にかかわる「回転」と出会って、こりゃなんか面白いなーと思ってしまったのでした。

 そんなふうに回転を考え出すと、素粒子から宇宙まで回転てのはここ世界の中で存在するものの根本なんじゃないか、回転しないものは存在しえないんじゃないか、作品というよりそんな偉大な「回転」そのものを展示したいと思ったり、
 行方を失ったようなこの時代に、同じところをぐるぐる回る「回転」が楽観的な進歩史観への嘲笑みたいに思えたり、始まりも終わりも因果もはっきりしない「回転」がご都合主義の物語逃避への批判に思えたり……たりたり

あー、ついに回転展おしまいということでいろいろ書きたいことは浮かぶんだけど、よくわかってないからグダグダできりがない。

整理したらまた書きます。個々の作品についてももうちょっと書きたいしな。
今日のところはここらへんで。

展示にかかわってくださった皆様、ありがとうございました。
回顧展のはずが新作だらけでスタッフの皆さまにはえらくご面倒かけました。
そして会場まで足を運んでいただいた皆様、ホントにありがとうございました。

最後に会期中、グルグルグルグル回ってくれた作品たち、ホントにご苦労様。
普通のただのモノに戻っておやすみなさいませ……ピリオド


piriod_s.jpg


2016.12.06 02:05 PM 投稿:by スタッフ@さるハゲ

しりあがり寿が日本の伝統美をゆる〜く解釈した「ゆる和」をテーマに、
伊勢丹新宿店で12/14〜個展を開催します。
作品の一部をご紹介します。


今回、おなじみの墨絵に加え自身初の出品となる陶芸作品など、掛軸、木彫、金箔漫画他、様々な「和風?」作品が一堂に会します。

<陶芸作品>
今回の個展の目玉が陶芸作品です。「和っていえば陶芸だよね。なんか作ってる人カッコイイし。」と、しりあがり寿が工房へ通い形作りから絵付けまでしたもので、陶芸はこれが本邦初公開!
しりあがり寿らしいゆるくて遊び心いっぱいの作品がお目見えする予定です。
(今回の陶芸作品はすべてkamakura山陶芸工房さんの全面的なご指導とご協力の下で制作されました。)
 
yuruwa_01.JPG
『陶鐸漫画』(陶芸作品)
弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である“銅鐸”を陶器で再現した「陶鐸」? 
銅鐸の特徴的な文様であるマス目を漫画のコマに見立て、陶鐸上に4コマ漫画を展開。
青銅色の釉薬を施した、大きさ約30cmの大作2点ができあがる予定。

 [陶鐸漫画:バナナ]
 ゆるめ〜しょんなどのしりあがり作品に度々登場する、4コマ漫画の元祖で一番バカバカしくベタな“バナナの皮で滑るオヤジ”を、重厚な歴史の中に組込む試み。表にも、裏にもそれぞれバナナの4コマが描かれている。漫画の線を、手捻りの粘土で表現した。
 
※写真は「陶鐸漫画:バナナ」を制作中のしりあがり寿
yuruwa_02.JPG

 [陶鐸漫画:ジョーモンくん、ヤヨイくん]
 世の中が食べ物に困らないよう、五穀豊穣の願いを込めて縁起物を制作。
 表裏のマンガにはそれぞれ、
 ジョーモンくん:「イノシシじゃね?」「レアでおろしポンズじゃね?」「グルメじゃね?」
 ヤヨイくん:「コメじゃね?」「はじめチョロチョロ中パッパ」「グルメじゃね?」
などと古代人のユーモラスな日常が描かれている。
 
※写真は「陶鐸漫画:ジョーモンくん、ヤヨイくん」を制作中のしりあがり寿
yuruwa_03.JPG
※焼き上がった「陶鐸漫画:ジョーモンくん、ヤヨイくん」
yuruwa_deki_04.JPG

『未来土器』(陶芸作品)
 はたして色付けは時代を超えられるか!? 埴輪、ハート形土偶、火焔土器など、古代の有名な土器をカラーリングなど様々な工夫で「未来からやってきたモノ」に逆転させる試み。
1万年後の考古学者にとって「時代鑑定がまぎらわしい厄介な土器」になることを目指しているそうです。
 
※写真は、製作途中の『未来土器』
yuruwa_04.JPG

『あらかじめ酔っぱらっているぐい飲み』(陶芸作品)
「入れ物そのものが気持ちよく酔っぱらってるような、そーゆー盃でお酒を飲みたい。」そんな気持ちで制作された作品です。へたりこんでたり、ゆがんでたり、中には自分では立てない盃も。
絵付けは青1色で、しりあがり作品でお馴染みのオヤジや女の子などが楽しげに舞っています。
こんな盃で一杯やりたくなりませんか。

※写真は絵付けの様子
yuruwa_06.JPGyuruwa_05.JPG
yuruwa_07.JPG
yuruwa_08.JPG
※焼き上がった『あらかじめ酔っぱらったぐい呑み』
yuruwa_deki_01.jpg
yuruwa_deki_02.jpg
yuruwa_deki_03.JPG
『酉の箸置き』(陶芸作品)
来年の干支である酉を箸置きに。自然石の形をトリに見立てるように、自由な形から発想し、酉の命を吹きこみました。
 
※焼き上がった『酉の箸置き』

yuruwa_deki_05.JPG
※その他 制作中の風景
yuruwa_11.JPG 
yuruwa_12.JPG
yuruwa_13.JPG yuruwa_14.JPG 
6日間のみの開催です。
お見逃し無きよう、ぜひお越し下さい!

=====================================
【個展情報】
■しりあがり寿個展『ゆる和』 

【日時】2016年12月14日(水)〜19日(月)
    10:30〜20:00(最終日18時終了)
【入場】無料
【会場】伊勢丹新宿店本館5F アートギャラリー
《しりあがり寿在廊日》 12/14(水)、17(土)、18(日)
《ライブペインティング》 12/18(日)14:00〜14:45

※写真はすべてメディア掲載用にご提供できます。ご希望の方は、このサイトの「contact」お問い合わせよりご連絡下さい。

DM_.jpg

2016.01.23 01:51 PM 投稿:by しりあがり寿

さるフェス2016から一週間、
あらためて、ご来場いただいた皆さま、ご出演いただいた方々ホントにありがとうございました!
フェスの後いろんな方々がブログやSNSでさるフェスを楽しかったと書いていただいてて、ホント嬉しかったです!で、この数日、なんか今更ですが、さるフェスって何だろう?とか考えちゃいました。



例えばさるフェスにはテーマがある。

今年は「おサルの産業革命」でしたが、昨年は「迷宮のシンデレラ」、その前が「今夜は宇宙旅行」。それぞれ会場である新宿ロフトを何かに見立てるわけです。前回はお城、前々回は宇宙船でした。で、今回は工場に見立てて「おサルの産業革命」。なんかこう今の時代のテクノロジーの進化とそれに翻弄される人間みたいのをテーマにしたかったんですね。

 だけどそのテーマってのがザックリしてて、なんというかトータルでコントロールが及ばない、課題曲とかあるけど、まぁ大抵それぞれ自由にやるわけです。お芝居の部分なんて当日3時間のリハーサルしかない。出演者もなんとなく親しいからとか面白いからとかもういろんなジャンルから集まってくる。こうあるべきだ、みたいな完成図があってそこに向かうというより、なりゆきにまかせてどこまで行けるか?みたいな。

 産業革命もなりゆきでなんとなく社会主義革命っぽくなるし、山中先生が出てくださるんなら、大日本プロレスとくっつけようとか。兼好師匠が出てくださるんなら、寄席のコーナー作ろうとか。いろんなことが全体像よりもなりゆきで決まってくる。

 言ってみれば「さるフェス」は、ちゃんとした設計図に沿って建てられた高層ビルでなく、風雨に晒されてなんとなく出来あがった「奇岩」のようなものです。

 そこには誰かの何かを表現しようなんて意図はない。岩をとりまく風や雨が自然に形を作っていく。さるフェスの場合だと時間が無いとか、技術がないとか、たまたま思いついたとか、そんな諸事情で思わぬところが凹んだり、へんなところが凸ったりした整理されないとっちらかった他にない奇岩を作るんだと思います。

 ボクはそんな奇岩が大好きです。

なんかキレイなビルよりヘンテコな奇岩の方がスキ。そちらの方によりこの世界らしさを感じるからかなー。

だってこの世界には驚くほど様々なものがあって、赤いものも黒いものも長いものも短いものも大きなものも小さなものも偉大なものもダメなものもあるけど、全てに等しく時が流れ、生成明滅を繰り返し、絶対完成なんかできなくて完成する時は死ぬ時で、てゆーか完成図なんてなくても、過不足、矛盾、それら全てひっくるめてこの世は美しい。

人工的な上意下達の組織よりも自然に役割分担された生態系のような群れ、システィマティックなショッピングビルよりも、ゴールデン街のように思い思いに作られた場、堅牢な何かよりも一夜限りのお祭り。あれもこれもそれもどれも不必要なものなど一つもなくあらゆるものが次々に現れては一瞬の光を放ち消えてゆく。

  一週間前の新宿ロフト、客席の真ん中でパスカルズの演奏が始まったかと思えば、となりのステージでは宮崎吐夢さんがラップをしている。川村亘平斎さんの影絵のおサルの呼び掛けでフロアでケチャが始まる。大日本プロレスの乱闘のあおりで、のぐおくんの粘土は壊される。隅っこの深海では朝倉世界一さんがカワイイ似顔絵を描いてる。さっきまで演奏していた知久さんが楽しそうに何十人ものカズーの演奏を見ている。その三浦カズーをよく見れば戸田誠司さんや鈴木さえこさんや名だたるミュージシャンだったりする。東大教授の山中先生の新作ロボットが段ボールのザクだったり、スイッチで転がりでた女工さんが大人気の地下アイドルだったり、一方熱唱でお客さんを感動させてるサングラスの男はいつもは大学の助手だったり、映画ライターがお気に入りの映画の宣伝のためにバンドをやってみたり、いつも仕事を手伝ってくれてる女性がバンドを率いたりカレーを売ったりしてる。玉石混交有象無象究極の寄席鍋。それはもうWEBの小さなwindowでは絶対再現することの出来ない360度のカオスです。そんな場が偶然、奇跡のように目前に立ちあがる。

で、この奇岩。奇岩が奇岩としてカタチをとどめるためには、作る側の「人を楽しませることで、自分が楽しもう」という強い気持ちが必要でこれがなかったら岩は砂になって崩れちゃう。カタチにならない。こうしたらもっと面白い、ああしたらさらに面白い、という目のキラキラした人たちの意志。そんな力と時間やコストといった風雨の均衡が奇岩となって現れる……

とにもかくにもそうやって、年に一夜だけ幻のように立ち上がる「奇岩さるフェス」。

そんなさるフェスを8年間も支えてくださっている皆さんに今一度心より感謝です!

最後に親戚がこの夜のフィナーレ用に作った「キミはカワイイ歯車」の歌詞の一部を貼っておきます。歯車というと悪いイメージですが皆とかみあって回り出せば大きな可能性があるみたいな歌詞です。全体主義っぽくならないよう気を使いましたw


では皆さん、ホントにありがとうございました!

また来年どんな奇岩が立ち上がるか楽しみにしてください!


君はカワイイ歯車♪

大きな工場の片隅

錆びた小さな歯車

じっと静かに動かない


だけどいつかかみ合えば

ボクらはきっと回り出す。

軋みながら目をさます。

ゆっくりゆっくり回り出す。


みんなみんな目をさます。

ゆっくりゆっくり目をさます。

全ての歯車が回り出す。

ゆっくりゆっくり回り出す。


ボクら みんな 回りながら、

大きなものを動かすのさ。

そうさ、大きな大きなとても大きな

大切なものを動かすのさ。


ギリギリギリギリゴゴゴゴゴゴーーーーーー♪

そうさ沢山の歯車が

グルグルグルグル ゴゴゴー

それぞれめいめいあちらこちら、

ギリギリギリギリゴゴゴー

思い思いに回り出せば

グルグルグルグル ゴゴゴー

大きな物が動き出す

(「キミはカワイイ歯車」親戚2016)


2015.02.15 11:31 AM 投稿:by しりあがり寿

先日メディア芸術祭のシンポジウムで、「日常をちょっとずらす」ってテーマのお話があったんだけど、なんか僕が「日常性=いつでもどこでも見られる」みたいなメディアの話にもってっちゃって申し訳なかったので作品内容の「日常性をずらすこと」について思い当たることをまとめておきます



日常性をちょっとずらす…これが大切と聞いて、うーんどうせなら大きくずらしちゃえばいいじゃん、何故ちょっとだけずらすの?なんて疑問に思ってしまったのだ。
で、考えたのがそうか大きくずらしたお話と少しずらしたお話はオモシロサの種類が違うんだ。
じゃあ、「ちょっとずらす」ことと「大きくずらす」ことのそれぞれの魅力は何?
でボクが思ったのはちょっとずらすのは「シュールレアリスム」、大きくずらすのが「ファンタジー」の魅力に近いんじゃないかと思ったのでした。
この二つ何が違うかというとファンタジーはオルタナティブだけどその異世界には異世界の世界観、法則がちゃんとあってその法則にしたがってストーリーが展開していく。魔法が使えるとか、時間があやつれるとか、ドラゴンが人間の言葉を話すとか、どんな突拍子もない設定でもそれを前提に世界は動いてゆく。だけど、シュールレアリスムってのは基本、日常なんだけどどこかが違う、まさに夢を見ているときのように現実と夢の境が曖昧。だから世界を動かしている法則そのものが読者にはよくわからない。
 だからファンタジーでは現実的な設定では味わえないような大きなスケールの爽快感やカタルシスが味わえる。
でもシュールレアリスムの方は異世界での大活躍よりはまず「この世界はいったい何なんだ?」というその眩暈めいたとどちらかというと内面的な葛藤が作品の魅力になる、ここらへんが大きく違うんじゃないかな?
 もちろんファンタジーの導入部、異世界への旅立ちなんかはシュールレアリズム的な魅力が満ちてるし、ファンタジーが夜の世界だとするとシュールレアリスムは黄昏、グレーの世界かもしれないし切り離せるものじゃないと思うけど、やっぱり両者には程度の差だけでなく質の差がある気がする。
 で、何故今「日常をちょっとずらす」ことが注目されているのか?その魅力がシュールレアリスムの魅力だとすると、そこにはこの現実への不安、世界をどう認識していいのかわからない酩酊感、時代がどう動いてゆくかわからない浮遊感のようなものがあるのかもしれないね。
てな感じ昨日のシンポジウムの補足でしたー。

2015.01.26 08:59 PM 投稿:by しりあがり寿

京橋のASK?でやってる個展が会期延長になりました。ということはちょうど会期半分過ぎたことになるのかな?この展覧会はいろいろな人からあれ何?みたいに尋ねられることが多いのでこの機会に作品について書いておきます。ネタばれとゆーかタネあかしとゆーか。
http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/ask/2015/shiiagari_15.html



ボクが回転に惹かれたのはいつだったかな?最初は映画「ガメラ対ギャオス」かな?ギャオスを捕らえるために回転するホテルの展望台の上にギャオスの好物の血液をのっけてギャオスが血を飲んでる間に展望台をグルグル回し、ギャオスの目を回させて捕らえるという作戦でね。結局作戦は失敗だったけど、回転スゲーって思ったなー。次は予備校の頃、下宿が近かった高田馬場駅のホームから落合の方を見ると、お相撲取りとセクシーな女の人が向かい合って立ち会い前の仕切りみたいのやってる通称「エロ噴水」てのが見えるんだけど、これがグルグル回っててね。東京出てきたばかりの18歳のボクはよくホームでボーッと噴水が回るのを眺めてた。
で、4年前 2011年の秋に広島現美で秋山祐徳太子さんと「ブリキ方舟展」という二人展をやらせてもらったんだけど、その中に「チクビ真っ黒族と股のあたりキラッ族の世界遺産をめぐる戦い」ていう作品があって、大きな部屋に10体くらいづつのマネキンがそれぞれチクビ真っ黒族と股のあたりキラッ族に扮して向かい合って立ってるんだけど、なんかこうもうひとつ物足りなくて、いろいろ考えてその時もう展覧会の一月前くらいだったんだけど広島のビジネスホテルで朝風呂に入ってる時に「マネキンを回せばいいんだ!」て思いついたのね。
で回してみるとこれがなんとも面白い。存在が急にアピールされて空間が充たされるんだね。それからボクはいろいろなところでいろいろなものを回してきた。観◯光展では鎌倉円覚寺の龍隠庵の倉庫で薬箱やティッシュやらいろんなものを回した。一昨年から昨年にかけての京橋ASK?では画家のアトリエを回した。地下では小さなダルマと焚き火を回した。昨年の春からは箱根彫刻の森美術館で大きなダルマ30体を回し「おれはーすごいぞ、えらいんだぞー♪」と小声で唄わせた。静岡のCCCでは今でもデッサン教室がまるごとグルグルと回ってる。
そう、なんかね回すってことがシンプルだけど深いことのように思えてきて、今の時代目の前の景色はどんどん変わっていくけど結局どこにも行き着けないというか、自分たち自身が同じ場所でただただグルグル回ってる存在に思えてきてね。何でもかんでも回してみると「そうか、おまえもか。」て感じで感情移入したりしてね。まぁとにかくここのとこやたらいろいろ回してきた。
さて、で今回も何か回そうと思って。で昨年の展示で壁で回ってた絵がいい味出してたのでもう一度今度は徹底して絵画を回そうと思って。その場合、おそらくそれは「風景が回ってる」とか「人物が回ってる」とか「抽象画が回ってる」とかそういうものを一切省いたただ「絵が回ってる」のがよかろうということになって。つまり何が描いてあるとか何を訴えようとかそういう内在するものが何も無いような、とりあえず絵画としか言えないようなただの「絵画」。例えば会社の応接室にずっと飾ってあるんだけど、何度そこで打ち合わせしても何が描いてあるのか思い出せないような、しいて言えば「絵がそこに存在すること」だけを訴えているそんな絵を回したかったのね。
でもってテキトーに頭の中で想像して壺の絵を描いてみたんだけど、いやーなんともビミョーな絵ができあがって(笑)。自分の中でこれヘンテコだから回すんじゃなくて別の見せ方ないかな、とか迷いだして。迷って迷ってやっぱり回そうってことになったのね。
展覧会のタイトルも途中で変えたりしてゴメンなさい。でもやっぱり回転すごいわ。絵画としか言えない絵画ってなんだろう?とかいろいろ迷ってたのが回りだしたらもうどうでもよくなって(笑)。回っちゃったらなんでも同じじゃんみたいな破壊力感じたりして。いやー、てなことで元気よく2月13日まで回っております。ボクの回転依存症はしばらく治りそうもないね。